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広島地方裁判所 昭和32年(レ)105号 判決

控訴人 小河潤一

被控訴人 国

訴訟代理人 加藤宏 外三名

主文

原判決を取消す。

被控訴人より控訴人に対する呉簡易裁判所昭和二十六年(イ)第三号売掛代金請求和解申立事件の和解調書に基く強制執行はこれを許さない。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

本件につき、当裁判所が昭和三十二年十二月十八日なした強制執行停止決定はこれを認可する。

前項に限り仮に執行することができる。

事実

控訴代理人は主文と同旨の判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求めた。

控訴代理人は請求の原因として、次のとおり述べた。

一、控訴人被控訴人間の呉簡易裁判所昭和二十六年(イ)第三号売掛代金請求和解申立事件において、昭和二十六年三月十三日控訴人と被控訴人との間に、(イ)控訴人は被控訴人に対し鉄線亜鉛線等の物件を売渡した残代金三十六万九千九百五十円及びこれに対する昭和二十二年九月五日以降完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払義務あることを認める。(ロ)控訴人は(イ)記載の金三十六万九千九百五十円につき、同年三月三十一日までに金十二万円、同年四月三十日までに金十二万円、同年五月三十一日までに金十二万九千九百五十円を夫々分割して国庫納金の要領により被控訴人に支払う。(ハ)控訴入が(ロ)記載の分割弁済を完全に履行したときは被控訴人は(イ)記載の遅延損害金の支払義務を免除する。(ニ)控訴人が(ロ)記載の分割弁済を一回でも怠つたときは分割弁済の利益を失い、残額及び(イ)記載の遅延損害金を一時に支払う。旨の和解が成立し、その旨の和解調書が作成された。

二、被控訴人は右和解調書を債務名義として、招和三十一年九月十八日広島地方裁判所呉支部に対し、控訴人所有にかかる別紙目録物件につき強制執行の申立をなし、即日同裁判所において不動産競売手続開始決定がなされた。

三、しかしながら、控訴人被控訴人間の前記和解は、次に述べるような理由から無効なものというべく、従つて右和解調書に掲記された給付請求権は存在しない。

(一)  控訴人は昭和二十五年九月以降訴外株式会社関西製鋼所(以下「関西製鋼所」という)に雇われ、同社仁方工場(呉市仁方町所在)に勤務していたが、これより先、同社と姉妹会社の関係にあり、経営者も同会社と同じ坂本照夫社長の経営にかかる訴外大阪鉄鋼線株式会社(以下「大阪鉄鋼線」という)において、同会社仁方工場名義で昭和二十二年九月四日頃被控訴人より鉄線亜鉛線等の物件(以下「本件払下物件」という)の払下を受けながら、その払下代金が未払となつていたので、控訴人は入社後ほどなく、関西製鋼所の社長であると同時に大阪鉄鋼線の社長でもある坂本照夫社長の指図を受けながら大阪鉄鋼線の代理人として大阪鉄鋼線の右払下代金支払につき被控訴人の代行機関補助者たる広島県主事竹中直三との間に交渉をもつようになつた。ところが昭和二十六年三月十日頃被控訴人の代理人たる広島法務局訟務課長渡辺槌太郎から、払下物件の代金支払いについて即決和解をしたいから同月十三日呉簡易裁判所に出頭せられたい旨の連絡を受けたので、控訴人は大阪鉄鋼線が払下を受けた本件払下物件の代金について即決和解をなすものと考え、坂本照夫社長とも相談の上、同月十三日呉簡易裁判所に出頭し、渡辺訟務課長から和解申立書(乙第一号証)副本の交付を受けた。右申立書は和解の相手方を控訴人とし、控訴人に対して本件払下物件を払下げたこととしてその代金債務につき和解しようという内容のものであつたが、控訴人は前記払下代金支払の折衝経緯からして、右申立書の記載内容を前述の如く大阪鉄鋼線に払下げた本件払下物件の代金債務について和解するものと速断し、その結果控訴人としては、内心は大阪鉄鋼線の払下代金債務につき同会社の代理人として和解する意思をもちながら、実際には、被控訴人の代理人たる渡辺訟務課長が示した和解条項通りの内容で和解することを応諾し、これにより前記一記載のような内容の和解が成立するに至つた。右の次第で控訴人の内心の真意とするところは、大阪鉄鋼線に対する本件払下物件の代金債務につき同会社の代理人として被控訴人との間に和解する意思でありながら、被控訴人の代理人である渡辺訟務課長の示した和解条項の内容を諒解したがために、控訴人自身の債務につき和解する結果となつたものであるから控訴人が右のように和解に応じたことは、錯誤による意思表示というべく、しかも控訴人は被控訴人に対して本件払下物件の代金債務を負担したことはないのであるから、右のような錯誤がなかつたら本件和解には到底応じなかつたことも自明の理であり、この意味において右の錯誤は意思表示の要素に錯誤があるものというべく、従つて右和解は無効なものといわねばならない。

(二)  右に述べたように、本件払下物件は大阪鉄鋼線に払下げられたものであり、その代金債務も同会社が負担しているのであるから、控訴人被控訴人間の本件和解において、仮に控訴人が自分の債務として和解する意思でこれに応じたものであるとしても、右はせいぜい控訴人において債務を承認したという程の意義しか有せず、しかも右債務承認の法的性質は、講学上観念の通知に属し、通知と事実とが一致しない限り右の観念通知を以て法律効果を生ずるに足る要件事実たり得ないものであるから、控訴人の右和解を以てしても、控訴人に真実承認の対象となる債務の存在しない本件においては、その効力の生ずるに由ないものというべきである。

四、よつて、右和解調書に基く本件強制執行は違法なものというべく、右債務名義の執行力の排除を求めるため本訴請求に及ぶものである。

被控訴人の主張に対する答弁として、次のとおり述べた。

一(一)  被控訴人の重大な過失ありとの主張は否認する。本件払下物件の買主は大阪鉄鋼線であり、控訴人は右会社の代理人として被控訴人との間に本件払下物件の代金支払について交渉をもつていた矢先、被控訴人から和解の申込を受けたのであるから、控訴人としては大阪鉄鋼線の右払下代金につき和解をなすものと考えるのは当然のことであり、しかも和解の申立人は国(被控訴人)であつて、知識経験豊かな法務局訟務課長の作成した和解申立書であるため、控訴人としては満幅の信頼を惜いてこれに応じたものである。しかるに実状は、本件払下物件の買主でない控訴人を和解の相手方とするという全く重大な過失を犯して和解申立をしたのであるから、仮に控訴人に幾何かの過失があるとしても、右は被控訴人側の右のような重大な過失により誘発されたものであり、かかる場合控訴人に重大な過失ありということはできない。

(二)  仮に控訴人において和解の内容を誤解したことについて重大な過失があるとしても、被控訴人は本件払下物件の買主が大阪鉄鋼線であることは十分熟知していたのであるから、控訴人が敍上のような錯誤に陥り本件和解に応じたことにつき、被控訴人は表意者(控訴人)の錯誤に陥れる事実を知り、叉はこれを知り得たものというべく、従つてこのような場合は、たとえ控訴人に重大な過失があつても、相手方(被控訴人)は本件和解の有効を主張し得ないものというべきである。

(三)  仮に右の主張が理由なしとするも、被控訴人は本件払下物件の買主が大阪鉄鋼線であることを十分知悉しながらも、その重大なる過失により和解申立の相手方を控訴人とする過誤を犯し、その結果控訴人の敍上のような錯誤を誘発させたものであるから、被控訴人において重過失の抗弁権を行使することは、徒らに自己の重大な過失を看過し、これに因つて誘発された控訴人の錯誤の責任のみを追及するに等しく、このことは畢竟正当なる権利の行使ということはできない。

被控訴代理人は控訴人の主張事実に対し次のとおり答弁した。

一、控訴人の主張する請求原因事実中、一、二の事実は認める。

三の(一)、(二)の事実については、控訴人の主張する日時に本件払下物件の払下をなしたこと、控訴人が主張の日時に呉簡易裁判所に出蹟して本件払下物件の代金につき和解したことはいずれも認めるが、その余の事実は争う。

(一)  控訴人の主張する本件払下物件は、戦後における特殊物件の払下事務の一環として、訴外広島県知事が被控訴人に代つてその払下並びに代金収納事務を処理していたが、当時払下申請者のうちには、幽霊会社を創つて申請するもの、他の会社の商号を借用するもの、会社の本店が遠隔地にあり県下に本店又は支店もなく単に工場又は営業所のみ存したもの等が相当あり、申請書に会社名こそ記載されていたものの、真の払下申請者が会社か個人かその実態を究めることは非常に困難な状況にあつたので、払下者としては、実際払下申請の衝に当つた者を払下申請及び代金支払の責任者と認めて、会社と関係なく払下げていた。このような訳で控訴人の主張する本件払下物件についても、払下申請書には大阪鉄鋼線仁方工場名義で記入されていたが、申請者名の如何に拘らず、当時大阪鉄鋼線仁方工場長をしていた控訴人個人を払下申請及びその代金支払の責任者と認めて、右会社と関係なく払下げたものである。従つて本件払下物件の払下を受けた控訴人がその代金債務を負担することあるは当然のことであつて、該代金債務につき控訴人と被控訴人との間に敍上の和解をしたのであるから、控訴人主張のような錯誤の生じよう筈はない。

(二)  仮に本件払下物件の払下を受けた者が控訴人ではなく控訴人の主張するように大阪鉄鋼線であるとしても、控訴人は右会社の払下代金債務につき重畳的債務引受をなした。即ち被控訴人は大阪鉄鋼線の本件払下物件の代金支払について、昭和二十六年三月頃当時大阪鉄鋼線仁方工場に勤務していた控訴人との間に種々折衝を重ねていたが、右会社は約束の期日に代金の支払をしないので、被控訴人としては代金回収の必要上、その都度会社の不誠意を問責していたところ、控訴人において大阪鉄鋼線の払下代金債務を引受けて支払の責に応じてもよい旨の申出があり、被控訴人としても右債務引受の申出に同意し、その結果、控訴人が大阪鉄鋼線の払下代金債務につき、会社と併立して重畳的債務引受をなした。この点につき控訴人は、控訴人が自分の債務として本件和解に応じたことは、控訴人において単に債務を承認したという意義しか有せず、もともと承認すべき債務を負担していない控訴人にとつては、右債務承認は客観的事実と符合しない行為であるから無効なものであると主張しているが、かかる所論は控訴人の独断に過ぎず、控訴人の債務として本件和解に応じたことは、とりもなおさず会社の債務につき重畳的債務引受をなしたことを物語るものというべきである。従つて控訴人は右債務引受により生じた控訴人自身の債務について、被控訴人との間に本件和解をなしたものであるから、控訴人の主張するような錯誤の問題が起る理由は毛頭ない。

二、仮に控訴人の主張するように要素の錯誤があるとしても右の錯誤は次に述べるように控訴人の重大な過失に基くものであるから、控訴人自らその無効を主張し得ないものというべきである。控訴人は旧制商業学校卒の有識者であり関西製鋼所仁方工場にあつては、本件和解当時事務課長の要職に携つていたものであるから、その職業柄法律行為の形式効果等について一般人以上の注意力が要求されてしかるべきであるところ、被控訴人の示した本件和解申立書につき、和解の相手方を単に「小河潤一」なる個人名の表示と「大阪鉄鋼線工業株式会社代表者何某代理人小河潤一」なる代理資格のある表示とを法律上同一のものと軽信したとすれば、余りにもその職業柄要求される注意義務を欠いたものといわなければならず、更に和解条項の内容においても、控訴人個人の債務について双方互譲して争を止むることの文言が随所に記載されていて、裁判所の和解勧告に際してもその内容が告げられ、これが文言の意味を十分に知悉し得た筈であるから、これを会社の債務について和解するものと誤解したとすれば、かかる誤解をしたことにつき、控訴人に要求される注意義務を著しく欠いた過失があるものというべく、従つて控訴人は自ら錯誤による無効を主張し得ないものというべきである。

立証〈省略〉

理由

(一)  控訴人被控訴人間の呉簡易裁判所昭和二十六年(イ)第三号売掛代金請求和解申立事件において、昭和二十六年三月十三日控訴人主張のような内容の和解が成立し、右和解調書には、(イ)控訴人は被控訴人に対し鉄線亜鉛線等の物件を売渡した残代金三十六万九千九百五十円及びこれに対する昭和二十二年九月五日以降完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払義務あることを認めること、(ロ)控訴人は(イ)記載の金三十六万九千九百五十円につき、同年三月三十一日までに金十二万円、同年四月三十日までに金十二万円、同年五月三十一日までに金十二万九千九百五十円を夫々分割して国庫納金の要領により被控訴人に支払うこと、(ハ)控訴人が(ロ)記載の分割弁済を完全に履行したときは被控訴人は(イ)記載の遅延損害金の支払義務を免除すること、(ニ)控訴人が(ロ)記載の分割弁済を一回でも怠つたときは分割弁済の利益を失い、残額及び(イ)記載の遅延損害金を一時に支払うこと、等の記載の存すること当事者間に争がない。

(二)  控訴人は、右のような和解をなすに際して被控訴人が示した和解申立書につき、その記載内容は控訴人に払下げた本件払下物件の代金債務にづいて双方互譲して争を止めようとするものであつたが、これを大阪鉄鋼線に払下げた本件払下物件の代金債務についで和解を申立てたものと誤解した結果、同会社の代理人の心算で右和解に応じたものであるから、右和解は控訴人において法律行為の要素の錯誤をおかしたもので無効なものである旨主張するので、この点につき検討するに、成立に争のない甲第一号証ないし第四号証、同第六号証、乙第一号証に、原審証人坂本照夫、当審証人竹中直三・渡辺槌太郎・西山寅雄の各証言並びに当審における控訴人本人の尋問結果を合せ考えると、次の事実を認めることができる。鉄線・釘等の製造販売を営業目的とする訴外大阪鉄鋼線(代表取締役社長坂本照夫)は昭和二十一年頃、同会社仁方工場(呉市仁方町)の申請名義を以て呉市長を介し、当時被控訴人の代行機関として旧軍用施設器具等の特殊物件の払下事務を処理していた広島県知事に宛て、鉄線等の特殊物件の払下方を申請し、その結果昭和二十二年九月四日附を以て広島県知事より鉄線亜鉛線等の本件払下物件について払下が許可せられ、その頃大阪鉄鋼線において本件払下物件の払下を受けた。控訴人は大阪鉄鋼線が右の如く本件払下物件の払下を受けた後である昭和二十三年十一月頃、同会社と同種の営業目的をもち、役員も同一構成といういわば姉妹会社の関係にある訴外関西製鋼所に入社し、同会社仁方工場に会計係として勤務したが、同年十二月頃一旦退職し、昭和二十五年九月頃再び同会社仁方工場に復帰し、昭和二十六年三月頃からは同会社の事務課長として同工場に勤務していたが、当時大阪鉄鋼線仁方工場の諸施設はあけて関西製鋼所に提供され、大阪鉄鋼線仁方工場は名目のみ存し、実状は関西製鋼所仁方工場として使用されている状態であつた。その頃大阪鉄鋼線は被控訴人より払下を受けた本件払下物件の代金を滞納していたため、被控訴人の代行機関補助者である広島県主事竹中直三において、大阪鉄鋼線に対する右払下代金を回収すべく、同会社仁方工場を訪れたところ、同工場は関西製鋼所が使用していて、払下代金の交渉相手になるような従業員はいなかつたので、偶々右関西製鋼所仁方工場において事務課長をしていた控訴人に大阪鉄鋼線に払下げた払下代金支払の件を持ち込み、以後控訴人との間に大阪鉄鋼線の払下代金につき交渉をもつようになつた。一方控訴人も、同人の所属する関西製鋼所と大阪鉄鋼線とは姉妹会社の関係にあり、社長も同一でその上大阪鉄鋼線仁方工場には従業員もいなかつたこと等のため、控訴人においてこの交渉の相手方となり、同人の所属する関西製鋼所の社長であると共に大阪鉄鋼線の社長でもある坂本照夫の指図をうけ乍ら、竹中主事との間に折衝を続けるようになつた。ところで大阪鉄鋼線は今迄にも同会社取締役等をして払下代金の支払を約しておきながら、約束の期日になつても一向に支払わない状況にあつたため、竹中主事は控訴人に対して右のようないきさつを説明し、早急に払下代金を支払うよう重ねて要請したところ、控訴人は大阪鉄鋼線に支払の誠意が足りないことを認め、この問題につき控訴人において責任を以て事に当り、早急に払下代金の支払ができるよう努力する旨答えたが、竹中主事は控訴人の右言葉の意味を、大阪鉄鋼線に支払の誠意がないから控訴人が個人として右払下代金につき支払の責任を負担するものと誤解し、その結果、即決和解の方法によつて解決したい旨を控訴人に話して、事後国の争訟事務を担当する広島法務局訟務課長渡辺槌太郎に手続を引継ぐに至つた。そこで渡辺訟務課長は竹中主事からの、控訴人が大阪鉄鋼線の本件払下物件の代金について支払の責任を負う旨の伝言により、和解の相手方を控訴人として和解手続を進めることとなり、代金を分割の方法で支払うことを竹中主事を介して控訴入に説明させると共に、控訴人に対し同月十三日呉簡易裁判所で即決和解をしたいから同日広島法務局呉支局に出頭せられたき旨通知した。一方控訴人は、竹中主事との間の従前の交渉経緯等からして、渡辺訟務課長からの右和解申出の意を、大阪鉄鋼線に対する本件払下物件の代金について即決和解をなすものと簡単に考え、大阪鉄鋼線の社長である坂本照夫に相談をしたところ、代金支払いについて分割の方法で適当に和解に応じてもよい旨の指示をうけたので、大阪鉄鋼線の代理人という資格で同日広島法務局呉支局に赴き、同所で渡辺訟務課長より和解条項の内容につき説明をうけた。しかし右説明は専ら払下代金の支払方法の点についてなされたに過ぎず、和解の相手方を誰にするかということについては、渡辺訟務課長としては、竹中主事よりの連絡によつて控訴人自身が支払の責任を負うものと理解しており、又控訴人としては、本件払下物件の払下並びに代金支払の交渉経緯等よりして、当然大阪鉄鋼線が相手方となるものと考えていたこと等のため、双方共改めてこれが確認をなすことをしなかつた。そして引続き渡辺訟務課長の手で、呉簡易裁判所に控訴人を相手方とする即決和解の申立がなされた。右和解申立書には、和解の相手方を控訴人とし、控訴人に対する本件払下物件の代金につき双方互譲して争を止めることを内容とするものであつたが、控訴人は前述のような事情からして、右申立書の記載内容を大阪鉄鋼線に払下げた本件払下物件の代金債務につき和解するものと誤解し、その結果控訴人としては大阪鉄鋼線の代理人の心算で、渡辺訟務課長が指示した和解申立書の和解条項通りの内容で和解することを応諾し、これにより控訴人と被控訴人との間に、前記のような内容を有する和解が成立するに至つた。以上の通り認められ、証人竹中直三・渡辺槌太郎の各証言中右認定に反する部分は前顕証拠に照らして信用することができず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

以上認定の事実によると、控訴人と被控訴人との間に成立した本件和解は、控訴人において、被控訴人が控訴人に対して払下げた本件払下物件の代金につき双方互譲して争を止める目的で申立てた和解申立書の記載内容を、大阪鉄鋼線に対して払下げた本件払下物件の代金につき和解をなすものと、その内容的意義を誤解したがために、右のような和解に応じたものというべく、しかも敍上認定の経緯よりして、控訴人に右のような誤解がなければ本件和解には到底応じなかつたのであろうことも当然のことがらであるから、本件和解は控訴人において要素の錯誤に基きなされたもので、無効なものといわねばならない。(なお控訴人・被控訴人間に成立した右のような和解には、両者間において、本件払下代金債務の帰属主体が控訴人若くは大阪鉄鋼線のいずれであるかについて争があり、その結果控訴人の譲歩により右債務の帰属主体を控訴人とすることに確定したという関係は全然存在しないから、当事者間に成立した本件和解につき、払下代金債務の帰属に関し法律行為の錯誤を理由とする控訴人の主張は許さるべきものである。)

この点について被控訴人は、大阪鉄鋼線に払下げた本件払下物件の代金債務につき、控訴人は重畳的債務引受をなし、その引受により生じた債務につき本件和解をなしたものであるから、控訴人に主張のような錯誤の生ずる余地はあり得ない旨主張し、原審及び当審における証人竹中直三・渡辺槌太郎の各証言中には、右主張に符合するかのような供述もあるが、既に認定した如く、本件払下物件は大阪鉄鋼線に払下げられたもので控訴人の所属する関西製鋼所とは一応別個の会社であること、右物件は控訴人が関西製鋼所に入社する以前大阪鉄鋼線において払下を済ませ、既に同会社の製品材料として使用されていたこと、控訴人は本件払下物件の代金支払折衝当時、関西製鋼所仁方工場の事務課長として月額一万余円の賃金支給を受ける使用人に止まり、被控訴人の主張するような大阪鉄鋼線仁方工場長という要職に就いていた者ではないこと、その他控訴人と竹中主事との間における本件払下代金支払の交渉経緯等に徴するときは、右証言はいずれもたやすく信用することができず、他に被控訴人の主張するような事実を認めるに足る証拠はない。

(三)  ところで被控訴人は、控訴人に右のような要素の錯誤があるとしても、右は控訴人の重大な過失に基くものであるから控訴人自ら錯誤による無効を主張し得ないと抗争するので、この点につき検討するに、本件和解に関して控訴人のおかした錯誤は、前記認定の如く、被控訴人の示した和解申立書の記載内容につき、和解の相手方として「小河潤一」と記載あるを大阪鉄鋼線に対する和解申立と誤解し、又和解条項の内容についても、「相手方は申立人に対し本件払下物件を売渡した残代金……の支払義務あることを認めること」等とあるを、同じく大阪鉄鋼線に払下げた本件払下物件の代金につき大阪鉄鋼線を相手方とする和解条項なるものと誤解したものというにあるから、控訴人のおかれている地位より要求される相当の注意を払つておれば控訴人として比較的容易に右のような錯誤の結果を避け得ることができたであろうことも推測するに難くないところである。しかしながら、ひるがえつて本件和解が成立するに至つた事情をつぶさに考えてみるに、既に見た如く、右和解の相手方を控訴人とする申立がなされるに至つたのは、被控訴人の補助機関である竹中主事において、控訴人の示した「大阪鉄鋼線に対して払下げた本件払下物件の代金支払につき責任を以て支払ができるよう努力する」旨の言動を、控訴人が大阪鉄鋼線に代つて支払の責任を負担する意に誤解した結果、控訴人を相手方とする和解申立がなされるに至つたものであること、又控訴人と竹中主事との間における交渉において本件払下物件が大阪鉄鋼線に払下げられたものであることは双方とも当然のこととして、専ら右払下代金の支払確保の点について交渉がなされていたもので、これがため控訴人としても、本件和解が被控訴人と大阪鉄鋼線との間になされるものと考えるのは当然のことがらであつたことの事情が認められ、更に本件和解申立書を作成した被控訴人の補助機関たる渡辺槌太郎は、広島法務局訟務課長の要職にある人であり、国(被控訴人)の機関として訟争事務に精通せる渡辺訟務課長のなせる処為であつてみれば控訴人として一般私人間における取引関係書類等に対する配慮の度合に比較して、右和解申立書の記載内容を十分検討するまでもなく、一応その記載内容の真実性につき信を措くことも通常ありがちなことであり、これらの事情に本件払下物件の代金支払に関する交渉経緯並びに本件和解申立の経緯等を合せ考えるときは、控訴人が前記のような錯誤に陥つたことにつき、未だ控訴

人のおかれている地位から通常要求される注意義務を著しく欠いたものということはできない。そして他に控訴人が錯誤をおかしたことにつき重大な過失があつたことを認めるに足る資料はないから、被控訴人の右主張は採用することができない。

(四)  以上認定の理由によると、控訴人被控訴人間に成立した本件和解は、控訴人において要素の錯誤に基きなされた無効なものというべく、従つて右和解調書に掲記された給付請求権は存在しないものといわねばならない。従つて右和解調書に基く本件強制執行は許されないものというべく、右債務名義(和解調書)の執行力の排除を求める控訴人の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がある。

よつて控訴人の本訴請求は正当として認容すべく、これと符合しない原判決は不当であるから取消すこととし、民事訴訟法第九十六条第八十九条第五百四十八条を夫々適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 大賀遼作 小池二八 丸山明)

目録〈省略〉

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